李 贊煕(イーチャンヒ)司祭のメッセージ


降臨節と二つの約束
      
                                     
仙台聖フランシス教会牧師
東北教区 司祭 ドミニコ 李 贊煕
(聖フランシス教会 2017年12月号・月報

巻頭言

(イザヤ7:14) それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしをえられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

降臨節の根となるこの言葉は、最初の約束です。最初の約束は、主イエスキリストの誕生と拘束のきのために契約します。神と私たちの間に古い最初の約束の言葉は信じて待っている人にとってはどのような祝福があるおられるか詳細に予言していました。 そして第二の約束は、主イエスキリストの再臨にする約束です。人間の体を着て、この地にられた神自ら人類の罪を贖いいただくための牲になりました。その過程で預言の言葉どおりひどい受難を受けられた次の十字架にかかって亡くなった。以後再び三日目に復活し昇天されました。イエスは昇天後、再び主としていらっしゃる約束をに受難がある以前からでした。主の言うように、復活昇天した後、天使は昇天された主を、人が見たまま再びられることが第二の約束の核心容です。

(ヨハネ14:1-3) 1. 「心をがせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2. わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3. 行ってあなたがたのために場所を用意したら、ってて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

降臨は、待ちと臨さが一に作用する季節です。私たちは、美しい主の子供で完全さを回復するようにしてくださるアドベントは祝福の時間です。ところが、この回復の約束だけえられるのではなく自分自身のすべてを私よりよく知っておられる主の前に私を出してささげのみえられます。主は何よりも、私たちが時間を下に置くことを望んでおられます。だからあえて主の前に恥を知っている人であれば誰でも悔い改めのかであろう、自分で自分を省察していない人には、私たちの良心と魂を下げながら叱ってくださいます。

最初の主がられ、2000年前のクリスマスには、神が極めて謙いただき、体を下げにくく人間になってきました。体を低くし、史にられた主の前に自分自身を反省します。人の前では、そろっているように飾っているが、今日は私の人生には、魚の臭みのような世界の欲望が混沌の私の人生あちこちに入りんでいることを表示します。だから池のほとりで主にった38年になった病人は、他の人がなく、すぐに自分自身だったことを告白します。だから、私の人生は、主にうだけで、私は主に待つしかありません。再び主からられる日 - あなたの神聖な子供である私たちは皆、主の前に謙に自分自身を下に置くことができると思います。主にって、病の自分を回復した38年になった患者のように、私たちはそうすることをうことを望んでいる。主よ!きてください!38年になった望みのないその病人に慈悲とあわれみを施される主よ!私をあわれんでください、私にも主よ、てください