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  ★イースター・メッセージ2005 「燃える心で」
                                                     
日本聖公会 東北教区
                                                     
主教  加 藤 博 道

   ヘンリー・ナウエンという名前を今やきっと多くの方が ご存知のことと思います。
 今からちょうど十年程前、聖公会神学院で一人の女性の神学生がこの人物の著作を卒業論文に取り上げ、ついでに
 本そのものも翻訳されました。聖職志願ではなく、信徒としての召命で働くことを決意しておられた大変優秀な方でした
 が、わたしはその翻訳の出版をお勧めし、やがてその本『燃える心で』は店頭に並ぶこととなります。
 その頃からヘンリー・ナウエンの著作は溢れるように翻訳・出版され、キリスト教の書店には特設コーナーが出来るほど
 になりました。霊的な黙想の書物を、教派を超えてこれほど多くの人々が求めていたのかと驚くばかりでした。
 
  『燃える心で』。もちろんこの題名は『ルカ福音書』第二十四章、「エマオ途上」の出来事から取られています。
 イエスの受難の後、失意のうちにエルサレムを離れ、エマオという村に向って歩く二人の弟子たちに、一人の人―
 イエスご自身―が近づき、一緒に歩き始められます。言葉を交わしていても、二人の目も心も閉ざされてしまっていて、
 一緒に歩いている人がイエスだとは分かりません。むしろ「歩きながら何の話をしているのですか?」
 などというその人に腹を立てる始末(イエスも少し意地悪していますね)。イエスは「ああ、物分りが悪く、心が鈍く・・」と
 きついことをおっしゃりながらも、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明」され始めます。
 二人の心はだんだんと「燃えて」きます。やがて夕方になって目指す村に着いた時、二人は無理にその人を引き止めて
 宿屋に入り、三人で食卓を囲みます。そしてその人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」
 その時に、二人の目は開けます。ご復活の主が今自分たちと共におられる!!その瞬間にイエスの姿は見えなくなり、
 しかし二人はもう何も怖れずにご復活の主との出会いを伝えるために仲間のもとへと戻っていくのです。

  ナウエンはこの物語に添いながら、わたしたちの人生の様々な経験と、ご復活の主との出会いの出来事を重ねていき
 ます。まず「喪失を嘆く」ことです。もう心が固くなって周囲も見えなくなるような経験があります。
 次に(聖書の)言葉の中で神の現存と出会うこと。今わたしたちの周囲には余りに多くの言葉、多くの情報が氾濫し、
 あるいは無意味に飛び交っています。イエスご自身が聖書を語られる時、それはたんなる情報ではなく、言葉そのものが
 癒しの力となります。そしていよいよ日も傾いてきた時、二人はその人とどうしても別れることが出来ず、
 その人を「無理に引き止めて」宿屋に入ります。
  ナウエンはこの「無理に引き止めて」、見知らぬ人を招いたことに大いに注目します。
 本当にその人のことを知りたいと思うならば、「招く」という行為がどうしても必要であると言うのです。
 招くことは自分の(家の)内側を見せることになります。閉ざしていた自分がだんだんと変えられて、相手を信頼して、
 自分の中に受け入れていくことです。
 そしてその「無理に引き止めて招いた」ことから食卓の交わりが起こり、目が開け、二人は喜びを告げ知らせる者へと
 変えられていきました。
  喪失の経験から、交わりの経験を通してもう一度新しい見方へと変えられ、自分自身の生き方が変えられていくとき、
 それはご復活の主との出会いの出来事なのです。
             

                                           (東北教区『あけぼの』3月号巻頭言より転載)