管理牧師加藤主教の説教メッセージ


バックナンバー1、 (2004.4.18)


   説教にかえて(ヨハネ福音書からの黙想)

                        2004年4月18日 仙台聖フランシス教会
                           管理牧師 主教 加 藤 博 道
 
    本日の第2日課、新約聖書(『ヨハネによる福音書』14:1−7)からしばらく思い巡らしをしてみたいと思います。
   昨年、東北教区に来る前の2年ほど、東京教区の常置委員を務めました。その選挙の時、開票が終わって発表に
   なってしばらくした時、突然議場に笑い声が起こりました。わたしはなんのことか分からず、しばらくボーッとしていた
   のですが、改めて掲示されている聖職3人の当選者の名前を見て、笑いの理由がわかりました。3人とも名前に
   「道」がついていたのです。日本人は「道」という名前が好きなようです。とくに教会につながりを持った家庭では、
   さらにこの名前が使われる可能性が増えるように感じます。
   もちろんキリスト教に限らず、というよりも日本の文化全体が「道」という言葉を愛しているように思います。
   芭蕉の「奥の細道」があります。花の道「華道」、お茶の道「茶道」、剣の道「剣道」、柔の道「柔道」等々です。
   それらの道は、それぞれ長い道程(みちのり)であり、決して簡単なものではないと、みんなが感じています。
   入門したその日に、免許皆伝になるなどとは誰も考えないでしょう。

    「キリスト教信者」が、最初の時代には「その道の者」と呼ばれていたというのは、興味深い話です。
   なんだか忍者のようですが。今日の第2日課、新約聖書にある通り、イエスという道を歩む者、だったのでしょう。
   「わたしは道であり、真理であり、命である」。
   その道はただたんなる「通り道」ではないと思います。ゴールが大事なのと同じくらいに、歩いていく道筋、
   途上が大事なのです。仏教的に言っても、完全に「悟りきってしまった」存在よりも、「悟り」の手前にありながら、
   「衆生(しゅじょう)」=人々の苦しみに一緒になって苦しんでしまう、身悶えしてしまう存在の方が、
   むしろ信心の対象になり、「有り難い」という面があるようです。
     
    日本の、例えば四国のお遍路さんの八十八箇所を巡る巡礼にしても、ゴールすればいいというものではないでしょう。
   タクシーに乗ってゴール・インしても仕方ないのです。「巡り歩き」「訪ね歩く」ことにこそ、むしろ意味があるのでしょう。
   現代は、しかし何でも早くわかり、簡単に答えが出ることが歓迎されています。宗教でも入門したその日に、
   「いい気分」になれることがきっと歓迎されるでしょう。そうした社会において、ゆっくりと生涯をかけて歩み続けるような
   古典的な信仰は、確かに流行らないのかも知れません。しかし、わたしたちは、「道」、あるいは「旅」という言葉の、
   深い精神性を知っているのです。「わたしは道、真理、命」。この言葉自身が正直に言えば謎のようです。
   「わたしは道、真理、命」。 主イエスの中に「道」がある、「真理がある」、そして「命」がある。
   その言葉の意味を、わたしたちが本当に「あーそうだな」「そうだったな」と納得できるのは、自分の人生が終わるとき
   かも知れません。「求めながら歩いていく」。「求道」という素晴らしい言葉があります。キリスト教を勉強しようとしている
   人だけが「求道者」なのではありません。わたしたち皆が「求道者」なのです。共に旅する者なのです。
   「わたしは道、わたしは真理、わたしは命」!! この言葉を胸にしばらく黙想したいと思います。
                                                       
                                                   
                
                              <説教者 主教 加藤博道>
                    日本聖公会東北教区主教。仙台聖フランシス教会管理牧師。