管理牧師(教区主教)メッセージ
2004年7月18日 仙台聖フランシス教会・主日礼拝説教。(信徒代読)
東北教区 主教 ヨハネ 加藤博道
―2004年7月18日の福音書より―
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた」。
本日の福音書は『ルカによる福音書』第10章38節以下、新共同訳聖書の小見出しには「マルタとマリア」という題が
つけられています。
村にお入りになったイエスを、マルタが家にお迎えします。そしてその後、マリアの方はイエスの足元に座ったまま、
イエスの話に聞き入り続けます。一方のマルタの方は、いろいろなもてなしのために忙しく立ち働くのですが、とうとう、
ちょっと「ムッ」としてしまったのでしょう。マリヤにも自分を手伝って一緒に働くように言ってくれと、イエスに訴えてしまい
ます。それに対するイエスのお答えは、
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけだ。
マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
というものでした。
教会の婦人会に、時々「マルタ会」と「マリア会」があるのを目にします。年齢によっての区分だったりします。
また教会のご婦人が「わたしはどうもマルタなもので」とおっしゃりながら、本当に忙しく教会の奉仕のために、
働いておられるのを目にします。忙しく立ち働くマルタと、じっと静かにお祈りするマリア、というイメージはかなり定着して
いるように感じます。そしてどちらが大切か、ということになり、イエス様は明らかにマリアの方を誉めておられる、
しかしマルタ的な活動もしないわけにはいかない、というジレンマに私たちは陥ることになります。
しかし、おそらく聖書の精神としては、マルタのしていることは批難される筈のないことです。「客を迎えいれること」
「もてなすこと」は旧約聖書以来、イスラエルのもっとも大事としたところです。「奉仕よりもお祈りが大事」という結論を
この話から導きだすことは正しいのでしょうか。「奉仕」か「静かに祈ること」か、という分裂、対立ではない、
このお話の見方は何なのでしょうか。
マリヤは「主の足元に座って」います。マルタは「せわしく働き」「多くのことに思い悩み、心を乱して」います。
「足元に座る」という姿勢は「弟子」の姿勢であると言われます。マリアはただ自分だけ静かにお祈りしたり、
お勉強したり出来ればいいと思っているのではなく、イエスの「弟子」である姿勢をとっているのです。ちなみに、
当時の男性社会の中で、女性が「弟子の姿勢」をとっていることも、ユニークなことかも知れません。
一方のマルタの問題は、「奉仕をしていること」ではなく、「多くのことに思い悩み、心を乱している」ことなのです。
イエスに対する訴え方にも、そんな彼女の心の乱れが表れているようです。「多くのことに思い悩み、心を乱している
状態」は神様の働きに信頼できていない状態です。動けば動くほど、働けば働くほど、自分が分らなくなり、
自己分裂していく状態です。それはイエスに従おうとする者にとって、良い状態ではありません。神様に、あるいは
イエスに奉仕しているようでも、心の中ではだんだん自分の予定や計画、段取りの方が大きくなってきます。
そしてそれが自分の思い通りいかないから「心が乱れて」くるのです。
それは、本当に多くの場合、私たちの、あるいは私自身の心の状態であるように思います。パウロは『ローマの
信徒への手紙』の中で、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、
預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。
教える人は教えに、勧める人は勧めに専念しなさい」と、そしてそれぞれが「惜しまずに」「快く」働きなさいと
勧めています(第12章6節以下)。
もちろん、そうした働きを人によって固定すべきだと言いたいのではありません。何をするにせよ、喜んで、
その時には専念しなさいと、何よりも本当に神様に信頼して働くとき、「多くのことに思い悩み、心を乱す」必要は
ないし、またそうあってはならないと今日の福音書は語りかけているように思います。
イエスは「マルタ、マルタ」と呼びかけます。十字架の受難を前に、これからイエスを否認することになるペテロに
呼びかけるときも「シモン、シモン」です(『ルカによる福音書』第22章31節以下)。サウル(後のパウロ)がダマスコ
に向かう途中、天からの声を聞いたときも、「サウル、サウル」でした(『使徒言行録』第9章4節以下)。
聖書の中にこの他にもありますが、名前を繰り返して呼ぶ呼びかけ方には、冷たい叱責ではない、むしろ憐れみと
希望を込めた響きが感じられます。「多くのことに思い悩む」わたしたちに向けられた主イエスの憐れみの眼差しを
感じつつ、同時に本当に大切なものは決して多くはないことを、いやまさに「イエスの弟子となること」―神様に信頼
して生きること―であることを確認したいと願います。
父と子と聖霊の御名によって.アーメン
<説教者 主教 加藤博道>
日本聖公会東北教区主教。仙台聖フランシス教会管理牧師。
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