管理牧師加藤主教の説教メッセージ
   

バックナンバー4、 (2004.8.29)


   説教にかえて(ヨハネ福音書からの黙想)    ―『ルカによる福音書』第14章7節以下―

                              仙台聖フランシス教会
                     2004年8月29日 聖霊降臨後第13主日(特定17)

                             主 日 説 教 (信徒代読)
                           仙台聖フランシス教会 管理牧師
                     日本聖公会東北教区 主教ヨハネ 加 藤 博 道

                       

   「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を
   招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。 そのとき、あなたは恥をかいて末席につく
   ことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。
   そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みん
   なの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

 本日の福音書の前半です。後半もやはり宴会を例にとって、人を宴会に招待するときには金持ち等を呼んではならない。
そういう人はお返しをしてくるだろうから。むしろお返しの出来ないような貧しい人や、体の不自由な人を招きなさい。
そうすれば、その人たちはお返しが出来ないから幸いだ、あなたは復活の時に報われることになる、と語られています。
 
 前半の主題は「高ぶるな」ということ、後半の主題は人に好意を示しているようでも、「お返しを目的にしてやるな」という
ことでしょう。主題そのものは分かりやすいと言えます。しかしいわば「譬え」として語られている部分は、一つ間違えば
かなりわざとらしい、いやらしい振る舞いになってしまいますね。わたしたちもいろいろな席、とくに日本のお座敷のような
ところに招かれた時には、こういう状況に遭遇します。そして皆遠慮して、「まーまー、いえいえ、どうぞどうぞ」ということになってしまいがちです。
 聖書の中にもこのように読み方によっては、大変「処世訓」的に読めるところがありますし、また実際、旧・新約聖書の
文学形式の一つとして、こうしたある意味で普遍的な、教訓、人生訓的な部分(箴言等、知恵の言葉)があります。
物語部分が少しわざとらしいのではないか、というところにあまりひっかかり過ぎないで、今日は「高ぶるな」という主題に、
心を向けていたいと思います。

 今述べた「知恵文学」の一つである「シラ書」(旧約聖書続編)が本日の旧約聖書に代わる朗読となっています。
そして「高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである」(10章12節)とあります。
わたしたちの本当の謙遜さの根拠は、「わたしたちが神様によって造られた」「すべてのものは主によって造られた」という
創造のこそあるのだと思います。表面的な謙遜、生きる上でのテクニックとしての謙遜ではなく、本当にわたしたちが人間と
して、根元のところで「高ぶっていない」というのはどういうことなのでしょうか。

 大分前になりますが、東京の立教女学院の機関誌に、東京教区の竹田 真前主教が(同学院の理事長として)巻頭言を
書いておられました。手元になく記憶によっていますので、やや不正確かと思いますが、聖公会の特徴、もっとも大事なこと
として「コモンセンス・ユーモア・寛容」を挙げておられたのです。順番が違うかも知れません。
「コモンセンス・ユーモア・寛容」。深刻なまでに真面目で、命がけの信仰である筈のキリスト教において、「ユーモア」とは
一体どういうことか、と思われるでしょう。しかし「ユーモア」というのは、言うまでもなくただヘラヘラと面白いことではなく、
自分の真剣であるがゆえに笑えないような状況をも、自分が絶対ではないことを知っているがゆえに、微笑(ほほえみ)を
もって見詰められることではないでしょうか。同師の本文の言葉とは違いますが、同師もそこでやはり「神の創造」に基づい
て、自分が絶対ではあり得ないことを知っている、そのことを「ユーモア・寛容」の根拠とされていたと思います。
大変なことです。ユーモアを失い、寛容さを失い、自分の信念や信条を固守していきり立つとき、それは真剣さにおいては
素晴らしいように見えつつ、しかしどこかで自分が中心になり、絶対になっていく、そういう危険に近づいているのだと感じ
ます。聖公会の信仰の大事な点は「ユーモア・寛容」。それは聖公会の信仰はなんとなく気楽で、曖昧でもいいなどという
ことでは決してなく、むしろ大変厳しい道なのではないかと思うのです。自分の信念のためには、至るところで爆弾を
爆発させて他の人を犠牲にしてでも戦うことと、どちらが困難な道なのでしょうか。わたしたちクリスチャンの生き方も、
時として表面的には大変謙遜・柔和そうでありながら、心の底にはかたくななものを持っている、そんなことになっては
いないでしょうか。今日の福音書の物語を表面的に読んでしまった場合です。むしろ表面的には頑固に見えても、心の底
に本当に柔軟な寛容さをもっている、そうした生き方を目指したいものです。「高ぶってはならない」。そのみ言葉を心にとめ
て礼拝を続けましょう。

(「コモンセンス」について触れられませんでした。竹田主教の本文を記憶していませんが、もちろんたんなる「常識」ではなく、自分中心ではない、深い共同的な感覚、のようにわたしは感じています)。

     
                                                             
                                                 
                   
                             <説教者 主教 加藤博道>
                   日本聖公会東北教区主教。仙台聖フランシス教会管理牧師。