管理牧師加藤主教の説教メッセージ
   

バックナンバー5、 (2004.10.28)


   説教にかえて(ヨハネ福音書からの黙想)    ―「ヘブライ人への手紙」第12章1節 ―
                              2004年10月28日
                            東北学院大学・泉キャンパス
                                礼 拝・講 話
                          加藤博道(聖公会・東北教区主教)

 もう大分前のことになりますが、アメリカ・カリフォルニア州のバークレイという所に勉強に行ったことがあります。
若い方々に人気の高いカリフォルニア大学バークレイ校というのがある所ですが、わたしは大学に行ったのではなく、
その大学の周りにいろいろな教派のキリスト教の神学校―神学を勉強して牧師とかになるための学校ですね―が
集まっていて、その中の一つに行きました。
 ご存知の通り、アメリカの学校は9月に始まります。ところが学校が始まってちょうど2週間経った時に、それはやっと少し
慣れ始めた頃でしたが、日本にいたわたしの母が亡くなりました。高齢の母を置いての無理をした留学を大変悔やんだの
ですが、ともかく急いで帰って、葬儀などいろいろあって、それからまた学校に戻ったのです。
しばらくすると11月が近づいてきました。ちょうど今頃の時期です。神学校の古いチャペルの片隅に小さなテーブルが
置かれて、そこに教授たちも学生も―学生といっても様々な年代の人がいるのですが―、自分の愛する、亡くなった人たち
の写真や花、ろうそく、その他の記念品を持って来て、それぞれに置くようになりました。また自分が記念する亡くなった人の
名前を書いたサイン帳も置かれ、静かな祈りの時もありました。わたしも勧められて、同じようにしました。

 わたしはその一連のことの中で大きな慰めを受けると同時に、また大変不思議な印象も持ちました。その時の雰囲気は
西洋というよりはむしろ仏教のような、いわゆる「抹香臭い」、土着的で不思議な印象だったからです。とくにこのバークレイと
いう街は、大学都市として、1960年代の世界的な学生運動の発祥の地、学問的にも大変リベラルで進歩的な場所と言われ
ていましたので、その進歩性といわゆる「抹香臭さ」との組み合わせが不思議な印象となったのです。
後から、カリフォルニアは歴史的にメキシコとの関係が深く、宣教師たちも多くスペインから来て、ですからまさに
サン・フランシスコとか、サン・ノゼ、パロ・アルトとか地名を見ても判るように、かなりスペイン的、カトリック的な影響が
強くあると聞いて、なるほどと思いました。

  例の、「ハロウイーン」との関係でも知られるように、11月の1日がAll Saint’s Day 「諸聖徒日」、2日がAll Soul’s Day
「諸魂日」(すべての魂の日)と言われる、キリスト教の大きな祝日になっています。もちろんキリスト教の幅の広い伝統の中で、この日をどう理解し、扱うかはいろいろですが、歴史的には東方のビザンチンの教会では4世紀以降、聖人とか殉教者への
感謝の祝日が守られ、西の方、西方カトリック教会でもいろいろ紆余曲折を経ながら、9世紀、835年にこの11月1日が
諸聖徒日と定められたようです。長い歴史があるわけです。

 キリスト教にはもちろん「祖先崇拝」ということはありません。亡くなった人、死者を神として祭ったり、それに対して祈ると
いうことも、決してありません。しかし、「感謝する」、そして「記念する(覚える)remember」ということには、キリスト教的なとても深い意味があります。先程の聖書は「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている
以上、すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」
(『ヘブライ人への手紙』第12章1節)というものでした。

 「多くの証人に囲まれている」のです。わたしたちは自分だけで生きているのではない、今いるわたし、わたしたちだけが
孤立した存在なのではない、「過去―現在、そして未来」という大きな生命(いのち)の繋がりの中に、今、自分も生き、生かされているという感覚を、先程の体験は思い起こさせてくれました。キリスト教的に言えば、「世を去った者も、今なお世にあるわたしたちも、すべて神様の中で結ばれている(聖徒の交わり)」という言い方になります。
 宗教学者の山折哲夫という方が「生きている者だけの人間関係というのは狭く硬直化してしまう。生きている者と死んだ者との間にも対話や連帯のパイプを通すことが、深みのある人間関係を作る」、ということをおっしゃています。
「深みのある人間観」ともわたしは言いたいと思います。11月が近づくと、わたしは自分の体験を思い出し、
今申し上げたようなことを思い起こしています。普段は本当に忙しく、目の前のこと、「現在」だけに追われている観があります。キリスト教の「一つの伝統」としてのこの季節は、わたしたちに生と死を含めた人間の存在の全体を深く見るようにと、勧めているように思うのです。
 皆様の学問においても同じことが言えるのでしょう。過去と現在と未来を結び合わせる、深く良い学びを今日もされますようにとお祈りいたします。
                                   
                                     以 上
                                                            
                                                 
                   
                             <説教者 主教 加藤博道>
                   日本聖公会東北教区主教。仙台聖フランシス教会管理牧師。