管理牧師加藤主教の説教メッセージ
   

バックナンバー6、 (2005.1.30)


     説教にかえて(ヨハネ福音書からの黙想)  
                          仙台聖フランシス教会 説教 (信徒代読)
                           (2005年1月30日・顕現後第4主日)
                            仙台聖フランシス教会 管理牧師
                          東北教区 主教 ヨハネ 加 藤 博 道


「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」

 今朝の福音書、「マタイ」の5章4節の言葉です。こういうとても難しい聖書の言葉を前にするとき、
わたしはいつも心の中に戸惑いがあります。皆様はいかがでしょうか。

 まず一番平板に読めば、この言葉は確かにその通り、当たり前だと言うことも出来ます。
「悲しんでいる人は慰められるから幸い」。しかし現実に、本当に悲しんでいる人を前にして、「あなた、良かったわね、
悲しんでいるからこそ、慰められるのよ」と言えるでしょうか。今、スマトラ沖地震と津波で、大変な困難と悲惨のうちに
ある人々に向って、この言葉を言うことが出来るでしょうか。
 クリスチャンには時々そうした危険性があります。例えば、病気の人に、「これもきっと何か神様のご計画よ」などと
言ってしまいます。 いや確かに、キリスト教にはこうした考え方はあります。
「すべてのことが神様のご計画、摂理」ということです。
ですから病気の人に、「これも何か神様のご計画だ」と言うのは、正しい言葉だと言えます。そしてこの言葉が、結果として
本当に、その病気になった人から見て、「ああ、この病気は大変だったけれども、神様のご計画だったんだ」と言えることも
きっとあるでしょう。
しかし他人が言うときにはどうでしょうか。何か変だと思われませんでしょうか。スマトラ沖地震・津波で苦しむ人に
「あなたがたは慰められるから幸い」と言ったり、病気の人に「これもきっと神様のご計画」と言うことは。
正しいことを言っているのだけれども、何かが正しくないのです。何でしょうか?

 もしこれらの言葉が「他人事」(ひとごと)として言われるならば、それは本当に冷たい言葉です。
相手を突き放している言葉です。
 もう大分前のことですが、神奈川県川崎市の在日韓国朝鮮人の方たちが多い地域の、多摩川の河川敷の小さな
伝道所(日本基督教団・戸手伝道所・ヨルダン寮)で池明観(チ・ミョンガン)という先生のお話を聞く機会がありました。
その先生がおっしゃた言葉を、今思い出しています。「逆説的なことを言うときには、そこに『抵抗』がなければならない」
という言葉でした。「悲しいことは幸い」「病気も神様のご計画(だから良いこと)」というような、普通の世間では言われない
言葉は、宗教的、信仰的な究極の逆説の言葉です。これらの言葉は、ただ普通に言われてしまうと、ものすごく変なことに
なってしまうのです。本当にそう確信するということは、実は自分も命がけで、悲しんでいる人や病気の人と苦しみを
共にしてこそ、言える言葉なのです。最高の共感の中で、ぎりぎりの「現実に対する抵抗」、
あるいは「コミットメント(関わり)」の中でのみ言うことの出来る、ぎりぎり大逆転の言葉なのだと思います。
(「抵抗」といっても、なにか抗議活動をするというような意味ではありません。その現実に自分自身も本当に向き合っていく、
という意味だと思います)。
 まさにイエス様は、最高の共感、それどころか自分自身が多くの人の苦しみを担って殺されていく方としてこそ、
このようにおっしゃたのではないでしょうか。自分自身は「悲しんでいる人」や「病気の人」から離れたところに立ちながら、
こうした言葉を言うことは、「言葉そのもの」は仮に正しくても、そこには救いの出来事、福音は起こってきません。
むしろ人を突き放す言葉になるのです。

 今回のスマトラ沖地震・津波のニュースに触れながら、ローワン・ウイリアムズ・カンタベリー大主教が、
「自分は神の存在を問う。いや皆、神の存在を問うべきだ」と強くおっしゃたという報道がありました。
カンタベリー大主教という、全世界聖公会の最高の霊的指導者でありながら、なんという「不信仰」な言葉でしょうか。
言葉は正しくないのかも知れません。しかしこの正しくない言葉を通しながら、大主教はあまりに大きな悲劇に対して、
必死で向き合おうとされているのではないでしょうか。「悲しむ人は幸い」とは言わなかったのです。
 聖書の言葉は難しいものです。「正しい言葉」が一杯あります。しかしその言葉を口にする自分は、対象となる出来事に
対して、どのような関わりを持っているのか、そのことを真剣に考えないならば、聖書の言葉は「命の言葉」とならず、
「むなしい言葉」になってしまうでしょう。
 「悲しんでいる人は幸いだ」とおっしゃている主イエスの、まなざしを思い巡らしてみたいと思います。
                                 
                                                                <以 上>
 
                      2005年1月30日<説教者 主教 加藤博道> (信徒代読)
                      日本聖公会東北教区主教。仙台聖フランシス教会管理牧師。