礼拝について
  礼拝について
                       
             「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。 わたしは、
            主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」  
                                            (『民数記』第十一章)


                                       

   エジプトから脱出はしたものの、かえって困難な状況に直面して、イスラエルの人々の不満は高まり、
  モーセはとても一人で人々を導いていく重荷に耐えられなくなります。その時、神はモーセに七十人の長老を選ばせ、
  彼らにもモーセに授けている霊の一部を与えられます。長老たちが霊に満たされ、さらにその場に居なかったエルダドと
  メダドという二人まで預言状態(ある種の熱狂状態)になったのを見て、モーセの忠実な従者ヨシュアは「わが主モーセよ、
  やめさせてください」と訴えます。冒頭の言葉はそれに対するモーセの返答です。

   多くの古代民族の政治と宗教が、特別な霊能力者、巫女のような存在に頼っていることを思う時、このモーセの言葉は
  大変印象的です。「主の民すべてが預言者になればいい」。確かにイスラエルもやがて制度的な王や祭司制度を持つことに
  なりますが、しかし当時の他民族に較べると、そうした存在に対して大変慎重で、実際、イスラエルの預言者たちは、
  王や祭司の専横や欺瞞を厳しくチェックする役割を担っていきます。
   神の民全体が「祭司的」「預言者的」使命を持つのだという思想は新約聖書にも一貫しています。そして旧約のイスラエルと
  同じく、キリスト教会もまた歴史の中で制度的な聖職制度を発展させますが、宗教改革がその点に厳しく抗議(プロテスト)した
  のはご存知の通りです。「長老派」「会衆派」という名前が示す通り、聖職制度を持たない多くのキリスト教会があります。

   今日、教会の礼拝や働きのすべての点における信徒の方々の積極的な参与を強く求めるようになったのは、
  ただ教役者(司祭)の不足によるのではありません。むしろ聖書的な理解に基づいています。
   このことは決して、教役者の責任を軽減したくて言うのではありません。いやむしろ、教役者・聖職の職務はさらに難しく、
  責任重大になっていると感じています。自分だけが立派な信仰を持って、祈っていればよいわけではありません。
  また産業革命以前の英国国教会の牧師と、同じ牧会方法でいいわけもありません。
  「コーディネーター」「ファシリテーター」、そして「アニメーター」(アニマ=魂、生命を吹き込む者)という表現は、伝統的な
  聖職像からすれば軽く聞こえるでしょうか。しかし結び合わせたり、力づける働きはまさに聖霊の働きです。
  聖職の働きもまた会衆全体を結び合わせ、生き生きとした生命活動へと促進するものでなければならないのです。
  そして預言者的、祭司的、さらに牧者的な使命は教会が全体として担うべきものなのです。

   この点を理解し、実現していけるかどうかに東北教区の将来もかかっていると思います。もちろん今までも、そして現在も
  豊かな信徒の働きはあります。いやむしろこれまでも信徒によって支えられてきたのでしょう。さらに豊かに、多様な仕方で、
  男女の教会奉仕者、伝道者、神学者を育てていくこと、そして基本的には信徒・聖職がそれぞれさらに信仰的な実力を
  つけていくことが大事です。若い方たちにも出来るだけ広く世界の教会の経験に触れていただきたいと願っています。
   主の年二〇〇五年の新しい歩みに、希望をもってご一緒に踏み出しましょう。
                          


                                            加藤博道(聖公会・東北教区主教)

                                                                        
                 




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